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​The City Layered

2020年東京オリンピック開催を契機とした再開発に伴って、東京の光景には巨大かつ全面ガラス張りの高層ビルがますます多く見られるようになった。さまざまなスケールの構造物が乱立した結果、距離感が失われ、見る位置によっては立体感が後退している。同じような規格のフロアが平面のパターンのようにも感じられ、高層になるほどそれが誇張されてますます立体感が薄くなっていくようである。その様子はまるで隙間という隙間をなくしていく作業であり、地面から空を構造物という壁紙で覆っていくかのようである。

 本作で捉えられるイメージ-静止する構造物とその狭間で動き続ける人々-は、作者がその構造物の内側に立つことによって得られるものが多い。高層階からの光景では反射によって建物の側面に地上が映り込んでいたり極端な遠近法による歪みがあったりすることで、普段地上で見ている光景とは異なる視点がもたらされている。 その意味では、外側から世界の様子を捉えるより、もしかすると内側からその現状を見つめ直すことに近いのかもしれない。

高層ビルの多くは、大量の人を抱え込んだ居住スペースのためのマンションか、商業施設とオフィスとがセットになった労働空間かのどちらかである。映り込んだ人々が一方向に歩き去る姿にときどき虚無感(疲弊感)を覚えるのは、そうしたことと関係があるかもしれない。いうまでもなく集合住宅は近代化の産物すなわち労働との関係の中で生まれたものであり、現代の日本においてはますます加速しているように思われる。

たとえ都市空間がどれだけ空疎で人の手から離れた存在のように感じたとしても、無論都市を作り出したのはわたしたち人間であり、生活するわたしたちの姿がそこにはある。無機質な平面とも空間とも分けがたいところに一瞬でも人が映り込んだりすると、安堵感を覚える。つまり服装や身振りといった人々のディテールが多種多様に確認されることで、人々の存在こそがこの作り物のような世界の主役だったことをあらためて認識させるのである。

一見すると目に見えない(あるいは見えないようにされた)、目に留めない都市の中に隠されたレイヤーを、映り込みやパースの歪みの中に見て取ろうとする。

本作は常に移り変わり忘れ去られる都市の記憶の記録であると同時に、いまや目に見えることが全てでないことが明らかな今日において、眼前の光景やその背景の確からしさ(あるいは覚束なさ)を現代の都市景観の中に定着させようと試みている。

 

2020/1 MEDIA PRACTICE 19-20 展示作品

​ECギャラリー「tagboat」にて販売中

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